イントロダクション

「女性には元々、母性が備わっている」、「子どもを産めば、母性が沸いてきて、自然に子どもの世話をしたくなる」とよく言われます。これは“女性にとって母性は、本能である”、また本能であるがゆえに“女性は常に母性を感じる”ということなのでしょう。「ダメな母親だ…」と、母親が自分で自分を責めたり、夫、家族、友人、近所の人など、周りの人から「母親のくせに」と非難する風潮はこの考え方が根底にあるのかもしれません。現在、この「母性神話」の崩壊が叫ばれています。

2010年、夏。大阪市内のマンション、大量のゴミに埋もれた一室で幼い女児と男児の遺体が見つかりました。マスコミは連日のように、この事件を取り上げ、容疑者であり、遺体で見つかった2児の母でもある下村早苗を非難しました。この事件のニュースを知った時、私はショックを受けると同時に、マスコミや世間の一方的な母親へのバッシングに違和感を感じました。そこには、私の妹が19歳でシングルマザーとして家事、育児をしながら、肉体も精神も疲弊していく姿を見てきたからかもしれません。

この大阪での衝撃的な事件と同様に、世間やマスコミは、似たような事件が起こる度、母親らしからぬ行動をしたとして被告の母親を批判し叩きます。確かに、これらの母親の行動は、身勝手としか考えられないかもしれません。
その一方で、母子世帯は行政からの支援があるものの、二親の家庭に比べ、経済的・精神的に不安定なケースが多く、女手ひとつで仕事しながら育児をする母親たちの陰の苦労は多くの人の知る所ではありません。経済的な面を見ても、母子家庭の約60%が貧困層にあたるそうです。(※1)にもかかわらず、世間からのシングルマザーへの偏見は強く、「貧困に陥るシングルマザーの大半は甘い、堕落している」という見方が多く存在しています。

私はこれらの母親たちに対して擁護をするつもりはありません。
ただ思うことは、「特殊な家庭だけに起こる、別世界の出来事」ではない、ということです。
事件を起こした親や加害者を凶弾するだけでは何の問題の解決にはなりません。
これらの問題は社会全体を巻き込んで、考察していくことが重要だと考えています。
 私は、この題材の取材を進める中で、これらの事件の背景には、低学歴や貧困による“情報からの阻害”、社会保障の不備の隙間を突く“身近な風俗産業”が関係していると考えました。
本作品では、“母親”と“女”との間で揺らぐ女性(主人公)が、離婚し、ネグレクト(育児放棄)に至る様を、淡々とした日常の積み重ねの中、敢えて弾劾も非難も同情も庇護もない視点で描きました。虐待は、身体的、心理的、性的とネグレクト(育児放棄)に分けられ、その中でも、ネグレクト(育児放棄)は外部から気づかれにくいと言われています。今回、マスメディアでは報道されない育児放棄が行われる母子家庭の内部を、住んでいる家の中以外の描写を排除した映画を制作することで、観た人々が「このような事件が、テレビから流れる他人事ではなく、自分の身近でも起こり得るかもしれない」と考えるきっかけになれば、嬉しく思います。

監督・脚本 緒方貴臣緒方貴臣


(※1)OECD(経済協力開発機構)の貧困率データ(2008)より・貧困率とは、OECDが定める「相対的貧困率」に基づく